親父逝く

わたくし事ではありますが、11/14に我が父が悪運尽きて生涯を閉じました。

この先、そんな父のことを知っている人も居なくなってしまうだろうし、私の記憶も徐々に薄れていくだろうから、しばらくはこのネットの藻屑として漂わせるべく、ココに書いておこうと思うよ。

 

出生は?

1937年(昭和12年)生まれ。時代を見てみると、1937年は「日中戦争始まる」となっています。そして1939〜1945年は第2次世界大戦ですので、8歳で終戦ってことですね。

複雑な家庭事情だったようで、5人兄妹で、一番上の姉と一番下のうちの父が、叔母夫婦の家庭に養子に出されたとのこと。

浅草生まれの上野育ちでチャキチャキの江戸っ子みたいです。この終戦の時は上野で暮らしていたようです。疎開先など無かったから…と言っていた。

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終戦後の動乱の時期は、走ってる米軍のトラックの荷台から食料くすねたりしてた話を聞いたことがある。なかなかたくましい子供だったのか?そんなことでもしなければ食っていけなかったのか?

まあ、下町辺りは全て焼け野原にされた東京の空襲を生き延びてきたのだから、悪運だけは強かったのだろう。

 

仕事と趣味は?

その後、どのような経緯かわからないが、高校時代やその後の働きはじめた頃には、葛飾 金町〜亀有辺りにいたようです。

仕事は、姉の旦那さんの小さな会社で電気工事士をしていました。

電気工事といっても、大きな工場等の天井クレーンなんかを専門にやっていたので、弱電の2種ではなく強電の1種の電気工事士ですね。家の電灯すら直そうとしないので「それでも電気工事士なのか!」と言ったことがあるが、まあ、免許は持っていたんでしょうね。

そんな仕事なので、現場に詰めて仕事をする感じです。いわゆる飯場暮らしってやつですね。そういえば、私が小学校の頃は、たまに帰ってくる感じでした。

岡山の水島、広島の福山(どちらも工業コンビナートですね)や八幡製鉄や黒部ダムなどにも数ヶ月単位で転々としていたらしい。

飯場暮らしだと「麻雀くらいしかやることない」ということで、仕事→麻雀(徹夜)→仕事→帰って寝るという生活だったと。そりゃあ、麻雀も強くなるはずです。

60歳過ぎても金町あたりの雀荘にフリーで打ちに行っていたので、そしてあまり負けて帰ってくる感じもしなかったので、それなりに麻雀強かったんでしょうね。

そんな現場仕事から戻り家にいる時は、麻雀、パチンコ、競馬(ノミ屋から買っていたようなw)が趣味って感じでした。まあ、よくよく考えると、ロクな親じゃねーなーw

それなりに海やプール、動物圏、遊園地なんかに連れて行ってもらった記憶も微かにあるのですが、そんな所ではなく、鮮明に覚えていることがある。

休みの日に珍しく父が家にいたので「どこか連れてってよー」とおねだりした。これまた珍しく「じゃあ浅草でも行くか!」と連れて行ってくれた。ただ…着いた場所が場外馬券場(WINS浅草ね)だったw

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今は恋人同士でも行けるくらい明るい雰囲気ですが、あの頃の場外とか…ヤバげなおっさんばかりで、とても子供が楽しめる雰囲気では無かった。さすがに息子が不憫に思ったのか、帰りに少しだけ花屋敷に連れて行ってくれたな。やはり、ロクな親じゃないなw

でも、普通の子供では行けないような所にも連れて行ってもらい、人生経験は積ませてもらったということか(^^)

 

仕事でも怪我

叔母さん(一緒に養子に出された一番上の姉ね)は父が働く会社の社長夫人である。社長夫人とはいえ、個人経営の小さな会社なので、その叔母さんも雑用で仕事場に出ていたとのこと。

その叔母さんが、「お父さんの頭に大きな傷あるだろ。あれ、大変だったんだから。よく死ななかったよ。」と言っていた。

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話を詳しく聞くと、仕事中に高いところから落ちて、頭を怪我したとのこと。絶対死んだと思ったとも言っていたので、かなりの高さから落ちたんですかね。「多分4〜5階の高さがあったと思うよ。よく死ななかったよね〜」と言われていたので。

工場の天井クレーンの仕事ということで、高所の作業も多かったのでしょうが、そんな怪我しても同じ仕事していたことは、まあ…ちょっと感心はしますね。

それにしても、皆が「死んでてもおかしくない」と言う事故でも生きているんだから、まあ、悪運だけは強いんでしょうね。

 

バイクでも大怪我

三郷という土地柄、車やバイクは必須です。

叔父の電工の会社はある所で廃業し、父は、凸版印刷の工場の電気配線のメンテナンスがメインの会社に転職していました。車にも乗っていましたが、東京の仕事場に通う際は、駅までバイクで行っていました。

うちの親は、車の免許に二輪車(それも限定解除)が付いてくる世代です。あの頃は、確かメイト90に乗っていました。

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50代半ばくらいですかね… 信号のない交差点で飛び出して猛スピードの車に跳ねられるという事故にあった。ちなみに親父が一時停止側で、相手が優先の交差点である。

事故現場には、交差点から20mくらい先に炎上して消化液まみれのバイクが、道路端で無惨な姿で放置されていた。

初期の治療も落ち着いた頃に、初期消火や救急車を手配いただいた現場前のガソリンスタンドにお礼に伺うと「えっ!?生きているんですか… ほんとに?でも、良かったですね〜」と驚かれたくらいの惨状だったようです。

ただ怪我は、右手→骨折と腱の断裂、右足→解放骨折、左足→骨折と足の甲の腱を全て断裂 と惨憺たる状況でした。右足は解放骨折ということで、医者からは「予後悪ければ切断ということになるかもしれません」と言われたし、右手、左足も「元通りに動くようにはならないかもしれません」と言われたが、リハビリ完了まで1年かかったものの、元通りに仕事ができる状態に復活している。

たまたま、技術力の高いお医者様に処置してもらったということもあるとは思いますが、本当に悪運の強い男である!(-"-)

 

病魔には勝てず

約3年前「この頃やけに小便が近いんだよなぁ」と医者に行ったところ、「膀胱の2/3が腫瘍で満たされている。右の腎臓も機能していない」との診断結果でした。腫瘍も悪性の可能性が高いということで、柏のがんセンターを紹介してもらい治療ということになった。これが2021年1月のこと。

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結局、膀胱と右腎摘出でストマ生活。その後の詳細の検査(確かPET検査とか言われた)で、右脇の下のリンパ節と肺に癌が転移していることが判明。リンパ節にもということで、ステージ4との診断です。

83才という高齢、既に大きな手術を行なっている状況ということで、「治療をするのであれば、抗がん剤+放射線の治療となります」とのことでした。

親父もさっぱりした性格なので、先生に「それやったら治るのか?」と…

先生からは「正直に言うと、半年の寿命が1年に伸びるということになると思います。逆に抗がん剤で体調が悪くなることも考えられます。」との返答でした。

「じゃあ、苦しいのは嫌だし、入院するとタバコ吸えないし、もういいや」と即答。

 

緩和ケア病棟

ということで、家の近くの緩和ケア病棟を持つ病院を紹介してもらった。これが2021年12月。

緩和ケア病棟を持つとはいえ「入院するとタバコ吸えないから、絶対入院しねーよ。あと酸素ボンベもいらん」と、月に1〜2度通院で担当の先生と話をする程度。

ただ、やはり徐々に弱っていくのは見てとれた。

「まだ大丈夫だぞ!」と宣言するように、毎日の散歩には出ていたようである。家の前の釣り堀にいる犬とおっさんに挨拶をし、野良猫と戯れ、近所のタバコ屋に行き、これまた近所の自動販売機でジュースを買って帰ってくる。

大人の足であれば10分ほどのタバコ屋である。自宅療養最初の頃は苦も無く歩いていた距離であるが、最近は「ちょっと歩くと苦しくてしょうがない」と言って、途中で座り込み休みながら、1時間以上かけて通っていた。今年のあの暑い夏も欠かさずである。

母は「炎天下の中出て行ったきり1時間半経っても帰ってこないので、途中で死んでると思ったよ」と笑っていた。くそ暑い中も肉体労働をしていた職人なので、暑さには強いんだろう。

そんな生活をしていたが、2023/10/2 食事ができなくなり、さらに高熱を出し緩和ケア病棟に入院。

検査したところ、肺がんが大きくなり食道を圧迫し食べ物が胃まで落ちていかない状態。それが原因で誤飲性の肺炎という診断でした。

この歳で、この体調で肺炎ということで、医者からは「覚悟してください」とまで言われたが、終戦〜戦後の上野を生き延びたしぶとさなのか… 一旦持ち直し緩和ケア病棟生活です。


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↑ここが親父のお気に入りの場所

もう起き上がる体力もないが、看護師さんにわがままを言い、この場所にベッドを動かしてもらい日中ずっと過ごすという傍若無人ぶりを発揮していた。

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見舞いに行ったら病室はもぬけの殻で、この場所で優雅にコーヒーを飲んでいた。

> 看護師の皆様… わがままばかり言い、ほんと申し訳なかったです。

 

目を離した隙に

入院して1ヶ月以上、固形物は食べられないので水分とゼリーを食べる程度なので、みるみる痩せていきます。

そして11/13、そろそろやばいということで家族招集されたが、行ってみるとスヤスヤと眠っている。あのドラマとかでよくみる「ピッ、ピッ、ピッ、ピッ…」ってやつも無しです。夜になっても状態が変わらないので、母と妹は一旦帰宅。私は念の為、付き添いお泊まりです。

朝8時過ぎ、まだスヤスヤと眠っている。

外は天気が良さそうなのでカーテンを開け、窓からの景色を写真に撮り

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起きたら「今日は天気がいいぞ」と見せてやろうとベッドに戻ると、息をしていない…

「じいちゃん!じいちゃん!」と声を掛け身体をゆすってみたが反応なし

「おい!徹夜で付き合ったんだから、最後くらい看取らせろよ」と思ったが、まあ、恥ずかしがり屋の親父らしいお別れではあった。

全然苦しまずに眠るように逝ったという感じです。そんな最後を用意してくれた健和病院の先生方、看護師の方々、本当に感謝です。ありがとうございました。

以上(・ω・)ノ